優しく冷酷な忠告と自我の大声

めでたく27歳になりました。
大人の階段を一歩ずつ上がっている最中です。
27歳って言うのは大人なのか子供なのかよく分からない歳ではありますが、
「子供のままでいたい」「大人になりたくない」感情の中で、日々生活をしております。

最近何故か「しかられる」「しぼられる」ことに感度が強い。

人は歳を取れば取るほど、怒られない。
「その人はその人の人生をそうやって生きているのだから、尊重しよう」
とするのか、
「そんな人はどうでもよい。僕に影響力がないから。」
とするのか、いずれにしても怒られない。

「なめられている。」
「自分がよくなるかもしれないアイデアをその人が持っている可能性がある。」
だからこそ、「怒る」言葉に耳を傾けなければならないと思う。

そんな中、忠告してくれる人に僕は耳を傾ける。
たまたまなのかもしれないが、僕に対して忠告してくれる人の言葉は
優しく冷酷で現実的な内容であることが多い。
その言葉は、まるで毒リンゴのように僕を突き刺す。
メッセージを伝える場合、やはりそういう方法が最適なのだろうか。

また、忠告というか自分の立場でモノゴトを伝える人がいる。
いや、不器用で悪い環境でそうするしかないのかもしれない。
とにかく、大きな声をだして怒る人がいる。
その言葉は、ノイズにしか聞こえない。
そのノイズが嫌だから、仕方なく従うということにしかならない。
自分事にはならない。

ある人はいっていた。
「人に合わせるのではなく、人を理解してモノゴトを進める」
だから自由でもよい。いいなりの人生なんて楽しくないもんね。

だから僕は、優しく冷静な忠告をしてくれる人に囲まれながら、
何か間違えているような事があれば、
優しく冷静な忠告をうまく伝える術をつけなければならないと
最近感じているわけである。

信じません(反論)「神様バランス論」

先日「神様バランス論」を説いたが、様々な方から反論をいただいた。
少し興味深かったので、解説しようと思う。

僕の考える神様バランス論は、言い返せば「みな平等」だということ。そして、反論とは、「みな平等ではない」ということ。
僕の考える神様は、おっちょこちょいだけど、みな平等にするさじ加減をもっている。
対して、他の他の人が考える神様は、言い換えれば「さじ加減はもっていない」ということ。

ある人は言っていた。
神様とは・・・・
例えば、飲食店や料理のようなもので、
神様は何人もいる。
汚くてまずい中華料理屋さんの神様もいれば、
一流フランス料理店のシェフのようなプロの料理人(神様)もいる。

そこで、料理(人間)をつくるのですが、
汚くてまずい中華料理屋さんは、やっぱりまずい料理(人間)しかつくれない。
ただし、そこで奇跡が起こることもある。
一流フランス料理店のシェフでもさじ加減でまずい料理(人間)をつくってしまう
こともある。

ということで平等ではない。
ただし、その運命というものは、僕は信じます。
運命の中であそぶ。という精神は、今までもこれからも信じます。